「ただいまーっと・・・ふぁ〜、
今日も一日疲れたぁ〜〜…」
誰もいない真っ暗な室内に向かって自身の帰宅を知らせると、ルフィはよれよれになった運動靴を乱暴に脱ぎ捨て部屋の灯りをつけた。
一番に流し台へと立ち、手洗いとうがいを済ませてから向かった先は寝台。その枕元に置かれたティーカップに向かって、ルフィは両手を広げる
「今日はちゃんとやったぞ?見てた、よな?」
当たり前のことなのだがルフィの問いかけに対し、何も語らぬティーカップ。だがこのカップには驚くべき秘密が隠されていた。
おもむろにティーカップの持ち手を握り締め流し台へと向かうルフィ。蛇口を捻って水道水をそのティーカップへと注げば・・
『・・・ウッ、生温っ、カルキ臭!テメェ、また水道水かよっ!!』
水面に浮かび上がる、たいそうご立腹な男の姿。
彼の名はサンジ。“Straw Hat Crew”シリーズというアンティークの1つ、ティーカップに宿った精霊である。
精霊と聞けば、なんだか可愛らしいものを想像してしまうのだが・・・
「そうはいってもな、すぐに用意できるモノって言ったらこれくらいしかねぇだろ?」
『水は水でも、なんか対処しろよ!沸騰させてカルキ臭抜くとか、出来ることがあるだろう。・・それでも水道水は勘弁してほしいけどな。』
「結局嫌なのかっ!あと残された選択肢ってーと、おれお手製の麦茶だけだぞ?それすらサンジ嫌がるじゃん。おれどうしたらいいんだよサンジぃ〜…」
『うるせぇなー、コッチは毎度クソ不味いモン入れられて気分が悪いんだよテメェで考えろ!ったく、これだから貧乏は…』
嫌味ったらしい愚痴をネチネチと零し続けるその男。お世辞にも可愛らしいとは言えなかった。
が、確かに彼は正真正銘、このティーカップに住まう精霊であることだけは間違いなかった。そうでなければ、何故液体を注いだティーカップの水面に人影が浮かぶのか、そして言葉を交わすことが出来るのかが、説明がつかないのだ。
そう。彼はティーカップに液体が注がれる事によって具現化するのだ。
共に暮らすようになってから分かった事だが、姿を現すか現さないかは注がれた瞬間の時点では決められないらしく彼の機嫌がすこぶる悪い日は姿が現れた思った瞬間消えてしまうこともよくあった。それは、ルフィからはサンジの姿が確認出来ないようになっているだけで、彼自身は常にティーカップの外・・ルフィの世界を伺い知る事が出来るのだという。
さらにつけ加えると、精霊にも味覚や嗅覚といった五感が機能しているらしくサンジの場合はティーカップに注がれた飲み物の味や香りを理解できるのだそうだ。よって、水道水を直接流し込まれた本日の不機嫌度数は3割増しといったところか。
「仕方がねーだろ、働けど働けど金貯まんねーんだもんよっ」
『そりゃ殆どテメェの食費の所為だよっ、給料入った途端どんだけ買い込んでくんだよっ!!つぅか野郎が語尾に“もん”とかつけんな気色ワリィ!』
「えーーーーーーーーーーー!」
『えぇー、じゃねぇよ、コッチが言いたいわっ!・・気の抜けた反応しやがって腹立つなクソっ』
機嫌の悪いサンジはとことん見境がなくなる。
一度火がつくとルフィのちょっとした言動にさえ怒りだすので、学業とバイトで疲れ切った身体に追い討ちをかけるが如くのサンジの罵声に、思わず深いため息が漏れた。
すると再び彼の怒りに火をつけてしまい、あーだの、こーだのと難癖つけてルフィに説教をかますのだ。
サンジとの生活が始まったばかりの頃は、日ごろから文句が多く、何かしら突っ掛かってこようとするサンジが鬱陶しく感じることも少なくなかった。
が、大人数でワイワイと騒ぐことが大好きなルフィにとって、一人暮らしの家は寂しくてつまらない場所だった。其処にひょんなことから現れたのがサンジだった。たとえ彼の第一声がお小言だろうが説教だろうが“一人ではない”という事がルフィに喜びを与えてくれていた。
ただ、家に帰るのではない。サンジと喋りしたいから家に帰る。たったそれだけで今まで憂鬱だった筈の家までの帰路が、胸を弾ませるほど楽しいものに感じられたのだ。
サンジと話すのが、楽しくてしょうがなかった。・・のだけれど。
『はぁ〜・・自分の事は棚にあげて、無機物の癖に口煩い骨董品には水道水で十分ってか?せめてミネラルウォーターでも買って来いよな…』
サンジの方はどうやらそうでもなかったみたいで。
わざとらしく肩を竦めてみせる仕草にルフィは眉を顰めた。
「んな事言ったって、今は金がねぇもんよ」
『だーから、可愛くねぇから“もん”とかつけるな!話がループしてんじゃねーか!』
何を言おうが、しようが、サンジの逆鱗に触れてしまう事をすでに学習済みなルフィは、口を尖らせて押し黙る他なかった。
と、再び口を開いたサンジが、ティーカップに注がれた水道水のカルキ臭を感じ取ってしまったのか、うぇっと顔を歪める。
そんなにもキツい臭いがするのだろうか?自分はそこまで気にしたことはなかったのだが・・と思いながらも、苦しそうな顔を見せるサンジを気に掛けていると。
臭いを誤魔化すかのように何度か鼻をこすったサンジが、ルフィを静かに睨み上げた。
『この前の激マズ茶もそうだけどよぉ…、もう少しマシな飲み物用意しとけよ。テメェはそれで今までやってきたかもしれねーけど、今はこのオレがいるんだぞ?』
「それって、どういう意味だよ…」
『オレはテメェと違って育ちが良いんだよ。こんな台所から寝室まで3歩でいけるような家に住んだことねぇし、ホコリがつくなんてことはもっての他だ。
第一オレはアンティークなんだぞ、骨董品だ。意味分かってるか?なのにオレをそこらへんの三流食器と同等に扱いやがって・・・』
「・・・・。」
『お蔭でコッチは毎日不満だらけだっつーの。愚痴ぐらいは大人しく聞いといてもらわねーとやっていけねーの。OK?』
ひとしきり自分の言い分を述べたサンジは、次はオマエの番だと云わんばかりにルフィを見上げた。
おそらくサンジがルフィに期待しているもの、それは謝罪の言葉だ。ルフィの謝罪を受けて、尚且つ自身の生活水準が多少あがれば好都合。その程度の訴えだと、ルフィは分かっていた。
けれど、それでも・・・。
「おれは、これでもサンジには不快な思いをさせねぇよう気を遣ってきたつもりだ」
『へぇーそうかい。どのあたりが・・って、オイ?』
と、ルフィは何を思ったのかティーカップの持ち手をつかみ、目的をもった足取りで台所の前へと立った。そしてそのまま、カップの中身を排水溝へと流そうとティーカップを傾けたのだ。
急なことにサンジは驚き慌てふためいた。ルフィは今日まで、どんなに罵声を浴びせられようとも強制的にサンジを追い返すような事は一度もしなかったからだ。
二言三言サンジが話したいと思ったことを勝手に話し、ルフィがそれに付き合う感じで会話が始まって。一通り話し終えたらサンジの方から姿を消して、それを見送ったルフィが中身を片付ける。
大抵の事は笑って流してきたルフィだったから。だからこそサンジも常に強気な態度で接してきたのだ。
それなのに・・
「おれがしてやれる事はなんだってしてやりたいって思う。オマエの仲間を捜してやりたいって気持ちも偽りじゃねーぞ。」
『待て、話の途中だって・・オイ聞けよ!』
「本当に、それだけは嘘じゃねーからな・・信じてくれよな、サンジ」
そういうとルフィは一瞬寂しそうな顔をしてみせて、サンジの呼び止めも虚しくカップの中は空になってしまった。
シンと静まり返る室内にティーカップを流し台に置いてから、ルフィはクルリと半回転し、流し台に凭れ掛かりながらずるずるとそのまま体育座りをした。
「ゴメンな、サンジ・・・」
ぽつりと一言謝ったルフィは暫くその場から動こうとはしなかった。
* * *
ガタンという扉の開閉音がしてそれから数秒後、室内に灯りがともされた。
その後、手荷物を置いたであろう物音、蛇口が開かれたであろう音、水が流れ出したであろう音・・アイツが手洗いうがいをしているであろう音と続いて、アイツはようやく一息つくのだ。
つかの間の安らぎを得たアイツは、ちゃぶ台に肘をついてボォーっと遠くのほうを見つめていて・・。オレはその様子を、目を凝らして伺うのだ。
オレの置かれた現状において、音と、その隙間から覗き見できる範囲内の情報が、兎にも角にも重要だったのだ。
何故なら・・・。
(いくら頭にキたからって何も棚の中に押し込めなくたっていいだろうが・・・。)
この家に来てから最初に仕舞われそうになった、ガラス戸の張られていない食器棚の中で、そのティーカップはひっそりと息をついた。他の食器は置かれておらず、真っ暗な空間にオレのカップだけがぽつんと置かれているのだ。
引き戸の合わさった部分に出来た隙間から漏れ出てくる光が唯一の灯りで、縦線に伸びる光のラインをオレは指でそっとなぞった。
少しばかりアイツを一方的に責め立て、そして言い過ぎてしまったと気付いた時にはもうこの場所に居て。強制的に会話をストップさせられたあの日から、この生活がずっと続いていた。
水道水かアイツお手製の激マズ麦茶を注がれ、これといって実りのない世間話を2、3交わす程度だったかつての習慣は無くなり、アイツが帰宅した後に一度だけ棚から取り出され、わざわざこのために買ってきたのであろう真新しいスポンジで軽く手入れされてから再び棚へと仕舞われる。アイツとの接点は、たったそれだけになってしまった。
カップを落とさないよう慎重に手入れを施すアイツは、あれからオレに声をかけなくなった。
オレがアイツに聴こえる言葉を返せない状態にあると分かっているはずなのに、それでも、ただいまとか、おはようとか、欠かさず口にしていたのに。
(・・まったく返してなかったわけじゃねぇ。
あぁ、とかおお、とかそんな相槌程度のモンだったかもしれない。今じゃ、そんなありふれた挨拶の言葉すら貰えない。)
引き戸の向こうでは、休憩を終えたアイツが夕飯の準備を始めたようだ。隙間から伺える範囲は主にちゃぶ台付近と一部の流し台だけなので、アイツの姿が確認できない位置に立たれれば、再び音に気を集中させる時間が始まる。
アイツの枕元に置かれていた時はこんな虚しい事はしなくたって良かった。あの場所は、アイツの家の全体が見渡せたから。液体が張られていようがいまいが、眠りの最中でない間は常に人間の世界を眺めていられた。
・・アイツの生活ぶりも、ずっと眺めていられたんだ。
(この前、帰ってきたら手洗いうがいぐらいしろよってアイツに云ったら、すげぇ吃驚してたよな。
何で知ってんだ!サンジすげぇなっ!!!って、妙に興奮して聞き返してきて。・・何一つ凄くなんか、ねーのにな。)
それからはオレに注意される前に、帰ってきた後は必ず手洗いうがいをするようになったアイツ。
確認するように物言わぬティーカップの前で逐一報告するようになったアイツの姿を思い出せば無意識に頬が緩んでしまうのだ。
バカだよな、ただのティーカップの精霊ごときに。いちいち真面目で、真っ直ぐで。
(仲間に逢わせてやるって、言ってくれたんだよな、アイツ・・)
見果てぬ夢と、諦めていた。
骨董品にこびり付いた残留思念の戯言と、受け流されると思っていた。
でもアイツは、絶対諦めるなとオレを叱咤し必ず実現させてみせると言い切ってみせたのだ。
(こんな、憎まれ口しか叩かねえヤツ相手に、どうして其処までしてくれんだ?)
かつて仲間達と共に暮らしていたあの豪邸での生活。
アンティークとしては、随分と待遇のいい暮らしをしてきたあの頃のことが、いまでも忘れられない記憶として残っている。
豪邸住まいだったからとか、待遇が良かったからとか、そういった理由からじゃない。
あの場所には、オレを含めた“Straw Hat Crew”の全員が揃っていたからだ。
仲間全員が顔を揃えていた、最後の場所だから。
一人、また一人と失われていく仲間達の姿に、オレ達は為すすべなく見送るしか出来なくて。
最後にはオレだけになってしまって、それでも仲間達との再会を夢見続けていたはずのオレは、時代の流れに翻弄されていくうちに、その思いを閉ざしていく。
結局オレ達、骨董品は人間の采配次第で運命がガラリと変わってしまうのだ。
オレ達がこうありたい、そうありたいと願った所で、所有者である人間がもう必要ないと思った瞬間、オレ達は骨董品ではなくただのガラクタになってしまうだけ。
実際、このオレはゴミ集積所に居たというのだから。オレの知らない所で、潰えるはずの命だったのだから。
・・・けれども。
(・・アイツが拾ってくれたから、オレは今ここにいる。
捨て去ったはずの思いも、知りもしなかった想いさえも、アイツが全部拾い上げて、オレに教えてくれた。)
人影が動いたのを確認して隙間に目をやれば、調理を終えたアイツが皿に作りたての料理を盛りつけしようとしている。
食器を割ることには自信があると自他共に認めているアイツ。そんな過酷な環境下で何とか今日まで生き残り続けている食器達は、アイツの為に課せられた役目を果たそうとしている。
目玉焼きらしき真っ黒な物体を皿に乗せたアイツはフライパンを流し場へと置いてから、皿と共に一つのお椀を手に持った。
そのお椀の中身は汁物ではない。あの、アイツが煮立てたという超絶薄めに仕上げられた例の麦茶が注がれているのだ。
(椀はそういうコトに使う食器じゃねーだろ。ここに上等なカップがあるだろうが・・)
“なんで、使ってくれないんだ・・・。”
鑑賞されることに喜びを感じていた筈だった。
飾られることを誇らしく感じていた筈だった。
けれども今、オレは別の喜びを求めてそれをずっと切望している。
お椀を手に持ち、口をつけたアイツにオレは思わず嫉妬の目を向けた。アイツの手に持たれた、その椀に・・。
(それはオマエの役目じゃねーのに。
割れないプラスチック製品だからってだけで重宝されて・・)
羨ましいと、思うようになっていた。
それは一度だけアイツがオレを“食器”として扱った、初めて出会ったあの日からずっと・・。
あの日に受けた衝撃は、永遠に残り続けるのだろう。
無意識に伸びてきた指先が、そっとその部分を撫でていた。
最初は気が動転してしまっていてちゃんと考えられはしなかったのだが、こうして棚に押し込められるようになってからはその事ばかりを思い出してしまうようになっていた。
そしてオレは、この僅かな隙間から目を凝らして、アイツに扱われている他の食器達を羨望の眼差しで見つめているのだ。もう疑いようもなかった。
――“食器”として扱われたいという願望が、オレの中に芽生えてきている。
アンティークとしての喜びが消えてしまったわけじゃない。だけど、おそらくそれに勝る喜びをオレは知ってしまった。
だからこんなにも切望しているんだ。あの場所に、帰ることを・・。
(気付け、オレに気付け・・!そしてここから出せ・・っ)
前に一度、液体の張られていない状態でオレがアイツの生活ぶりをじっと眺めていたら、急にアイツが困り顔で言ったのだ。『そんなじっと見てんなよ〜』と。
何故だか知らないが、アイツはオレの視線に気付いてくれた。だから、この僅かな隙間からじっとアイツを見つめ続けている。
ここから出して、そしてその食卓に並べろと。カップとして、食器として。オレを使えと、そう訴えかけて。
(なぁ、気付いてるんだろ?オレに・・)
問いかけるように目を細めれば、応えるように此方を振り向いたアイツが。
悲しそうな笑みを微かに浮かべて、そして再び前を向いてしまう。
「ゴメンな、サンジ・・・」
物悲しい声で呟かれたあのときの言葉が急に蘇ってきて、サンジの胸を切なく締め付けたのだった。