「ただいま〜〜〜、サンジぃ〜〜…」
『おー、おかえり・・ってオイ!其処で寝るなルフィっ!!風邪引くから起きろバカっ!!!!』
疲労困憊といった様子で帰宅してきたこの家の主を振り返れば、玄関口でうつ伏せに伸びている姿が飛び込んできて。
張れるだけの大声で怒鳴り起こせば、目をショボショボさせながらもゆっくりと起き上がるルフィに、はぁとため息をひとつ零した。
最近バイトの数を増やしたという話で時々こうして心底疲れ切った状態で帰ってくるルフィを、サンジはとても心配していた。
ぶっ倒れるルフィを担いでベットまで運んでやれない自分が歯がゆくて。介抱してやりたいのにこの場所から出られない自分が悔しくて。
『・・なぁルフィ、身体大丈夫かよ』
「んん〜…問題ねぇぞ?ねみぃのも多少あるけど、何より腹減ってて力でないだけだ」
『そんなになってまでバイト増やして、稼いでいったいどうする気なんだ…?』
「それは、・・・まぁ色々あるんだ!いろいろなっ」
流し台で豪快に顔を洗って少しは眠気が消えたらしいルフィは、よし夕飯作るぞ!と気合を入れつつ冷蔵庫を開く。
が、元から選べる程も料理のレシピを持たないルフィは、迷う事なくいつもと変わりない食材を取り出して、調理台に並べた。
――卵と味噌。たったこれだけ。
いつもの光景にサンジは哀れみの表情を浮かべる。
おそらく今夜も、白いご飯に目玉焼き1つ、そして具なしの味噌汁で済まそうとしている。
というかそれしかルフィには作れないらしいのだ。
以前ルフィから訊いた話じゃ、ルフィに生活するにおいての必要最低限の知識を与えたのは彼の兄だといっていた。
(本当に最低限しか教えてねぇんだな。
…単純にルフィが学ばなかっただけって可能性も否定出来ねーけど…。)
それにしたって・・なんとも物悲しい夕食ではなかろうか。
もう、2,3工夫すれば、いくらでもランクアップが可能だというのに。
美味しければそれに越した事はないが食えればなんだっていい。という考えを持つルフィは、何の疑問を抱くことなく普段と変わらぬ作業に取り掛かろうとしている。
(どうにかして、手伝ってやれないものか・・。)
この、見えない壁から飛び出してルフィの隣に立てれば・・。
オレの世界とルフィの世界とを隔てる見えない膜のようなソレに触れても、手がその膜を突き破ることはない。
そんなこと起こるわけがないというのに、何をオレは期待しているんだろうか。
バカらしい行動に自嘲的な笑みを浮かべてからサンジはルフィに声をかけた。
まさに卵を熱したフライパンへと落とそうとしていたルフィがサンジの呼び声に気付いて振り返る。
「なんだ、サンジ!今、手が離せないんだ」
『それなら一旦火止めろ。そんで、オレをソッチに運べ』
「ん??」
頭の上にクエスチョンマークを浮かべたルフィに、いいからと言うとおりにしろと促せば、ルフィは不思議がりながらもオレの指示に従ってくれる。
調理台は汚れているからと台所を近くで一望できる窓枠に置かれたサンジは、すぐさま夕飯の進行状況に目を光らせた。
ティーカップに宿る精霊、なんて得体のしれない相手にルフィはひとりの同居人として接してくれている。
優遇もしてくれる。我侭も好きなだけ言っていいのだと、ルフィはそういってくれた。
オレがしてやれる事といっても限られているけれど。
それでも、ほんの少しでもいい。
ルフィの役に立ちたかった。
『ルフィ、其処の味噌汁、ちょっとカップに注いでみてくれ。』
「・・これか?けっこう煮立ってんぞ?大丈夫なのか??」
『バァカ。精霊が火傷するとか思ってんのか?しねぇよ。ほら、オレの言うとおりにしろ』
「お、おぉ・・」
オレのティーカップに少なめに張られていたミネラルウォーターを流してから、ルフィはお玉を手に取りぶくぶくと沸騰している味噌汁をティーカップに注いだ。
中身が無くなって、一時的に姿が消えていたサンジが味噌色の液体に浮かび上がる。ルフィが話かけてもサンジは目を閉じて難しい顔をしたまま動かない。
カップ片手に、これからどうしたらいいものかとルフィが考えあぐねていると、
『ルフィ、オマエこれ。』
「んお??」
『本当に味噌溶かしただけだろ。味にまったく深みがねぇ。』
サンジが急に顔をあげて眉を顰めたままそう言ったのだ。そしてサンジはふと周りをぐるりと見渡しはじめ、一点で目を止めたと思ったら、ルフィに『あれを使え』と指差した。
指差した先にあるもの、それはこの前商店街のくじ引きで当たった6等賞の「ダシの素」とパッケージにデカデカと書かれた箱。
ルフィからしたらあれが一体何に使うものなのか分からなかったようで、一度も封を切られずにそのまま放置されていたものだった。
「あれって味噌汁に入れるモンだったのか…」
『他にも用途はあるが、それはおいおい教えていくとして…。
あれを入れれば多少味が変わるはずだ。それから何かしら具を入れろ。具からもダシが出て、味噌汁がさらに美味しくなる』
「マジかっ!!美味しくなるのかっ!」
『あぁ、オレを信じてやってみろ』
おお、サンジを信じるぞ!とルフィは意気揚々とダシの素の箱に手を伸ばした。
その後もルフィはサンジの指示する通りに料理を作っていき、気付けばボロっちいちゃぶ台の上には・・・
「す、すげぇ・・美味そう・・っ!!」
『こんだけ出来れば上等だろ』
目玉焼きのためだけに使用されていた卵は、炊きたてご飯と数種類のみじん切りにされた野菜と共にフライパンで炒められて、見事なチャーハンに姿を変えた。
そして、味噌を溶かしただけの味気なさ過ぎた味噌汁はダシの素と厚揚げから滲み出たうまみが香り立ち、食欲をそそる。
つけ合わせにきゅうりと大根を軽く塩もみしてしょうゆで味付けした漬物も用意すれば、十分すぎる夕食が完成した。
嬉々として箸を進めるルフィに、サンジは役に立てたと実感していた。
美味い、美味いっ、と何度も呟くルフィの声をBGMにして、一仕事終えた後の一服を満足そうに吸い込んだ。
ルフィの手は一向に止まらず、すべての皿をキレイにしてしまってから、ルフィは「あ。」とハッとしたように声をあげる。
『ん?』
「・・あんまり美味いもんでもう食い終わっちまった。」
『ハハ、なんだ、そんなことか。』
「おぉ、すげぇ吃驚した。ありがとな、サンジ。こんな美味い飯食ったの実家以来だっ」
『作ったのはオマエだろ?オレは少しばかり手貸してやっただけのことだ、礼を言われるようなコトはしちゃいねぇよ』
「そんなことねぇぞ!サンジが居てくんなきゃ、この味は出せなかったんだからなっ」
『・・そっか。ま喜んでもらえて良かった』
真っ直ぐな感謝の言葉がどうにも照れくさくて、顔を背けながらも答えると、ルフィはニッと笑顔を見せてからゆっくりと立ち上がった。
空になった食器を運んでいくわけでもないその動きが気になって、ルフィの行動を横目で伺っていると・・
『・・あ。』
「お?どったサンジ?」
冷蔵庫の中から取り出された、もはや見慣れてしまったペットボトル。
あのルフィオリジナルの麦茶が入ったボトルを手に持ったルフィがこちらを振り返る。
おそらくその後、ルフィが手にするものはあのプラスチック製のお椀に間違いない。
ルフィと和解したあの日、言いそびれてしまったことが一つだけあった。
それは、自分を食器として使って欲しいということ。
食器として使ってもらえたのは、オレが深い眠りの中から飛び起きたあの一回だけ。
『ルフィ・・あの、よ。』
「・・・サンジ?」
『えっと・・さ。』
これまでにも何度か言おうとしたのだが、その度にルフィがカップに口をつけた瞬間に感じたあの感触を思い出してしまってつい言いよどんでしまう。
柔らかい感触に覆われ、咥内を強く吸われたあの強烈な感覚は忘れることが出来ない。
とても深い眠りの中にいたオレに突如走った衝撃は今でも忘れる事ができない、初めての感触だった。
ティーカップにアイツの唇が触れた瞬間、眠りについたオレの唇にふんわりと重なったあの柔らかさ・・
そしてアイツがカップを傾けカップの中のものを飲み干そうとすれば、オレの唇に重なった感触がより一層深く混じり合った。
ぴたりと覆いかぶさったその感触が何かを求めるように咥内を吸い上げた途端、オレは一気に覚醒したのだ。
(あれが、キス、なんだよな・・?)
そんな、まさか・・。
人に使われるというのは、そういうものなのだろうか?
身体中に電流が走ったような甘い痺れは、癖になってしまいそうで・・。
なかなかその先を言おうとしないサンジに、ルフィは麦茶を手に一度ちゃぶ台へと引き返した。
あぐらを掻いてティーカップを手元に引き寄せる。上から覗き込むようにしてサンジに呼びかけたルフィは、穏やかな表情でサンジを見つめた。
「サンジ、おれ言ったよな?言いたい事があったらなんだって遠慮なく言ってくれていいんだって。」
『・・遠慮というか、なんというか』
「言い辛い事なのか?」
『そう、だな。…でも、言わねーままじゃ、変わるもんも変わらないよな?
ルフィ、ひとつ訊きたいことがあるんだが構わないか?』
「いいぞ、何でも言ってみろっ」
ティーカップを囲うように腕を回したルフィをじっと見つめるサンジは、勇気を振り絞ってルフィに訊ねた。
『オマエさ、なんでオレの事、ティーカップとして使ってくれねーんだ・・?』
「・・・へ??」
そんなコトを訊ねられるとは思ってもいなかったらしいルフィの間抜け顔を見つめながら、サンジは思いの丈をぶつけた。
自分は普通とはちょっと変わった所はあるかもしれないがそれ以外はただのティーカップで、飲み物を入れるための器として産まれた存在だ。
汁物やスープ類を入れるためのお椀に、飲み物を注ぐのはオカシイ。ここにれっきとしたティーカップが存在するのだから、出来るなら使って欲しいのだと。
少々熱くなって語るサンジ。だが、当のルフィはあまりいい顔をしていなかった。
ルフィの顔色に気付いたサンジは、望み薄な気配を感じ取ってそっと肩を落とした。
『嫌、なのか・・?』
「んーーー。嫌じゃねぇんだけど、ちょっと引っかかってんだよな」
『・・・何にだ?』
「拾ったばっかの時さ、オレがサンジのカップ使おうとしたら・・なんか呻いてたろ??」
『!』
「その後めちゃくちゃ怒ってたじゃねーか」
確かに…。
あの時はすぐ状況を掴めずに、目の前のルフィにとりあえず当り散らした気がする。
「オレすげぇマズイことしちまったのかなーって。
んで、サンジのティーカップは使わないようにしてたんだけど…。オレ勘違いしてたか?」
『あ、いや・・そう、か。そうだよな。
あんときのオレの反応見りゃ……そうするよな、オマエなら』
サンジを対等な相手としてみてくれているルフィなら…。
鈍感そうなクセに妙な部分で敏いルフィの気遣いに、サンジは身体の力を抜いた。
男の顔が映るような気味悪いティーカップなんて使いたくねぇ…なんて云われちまうんじゃないかって、少なからず思っていた自分が恥ずかしかった。
サンジは首を横に数回振ってから、ルフィの顔を見返した
『なぁ、ルフィ。人間も、寝ている時は流石に無防備だよな?』
「お?おぉ…そうじゃねーか?」
『そんな時、急に思いもよらぬ衝撃が自分に襲い掛かってきたら…飛び起きるよな?』
「おれは起きねーぞ?多分」
『・・・オマエはそうだろうな。間違いねぇわ。
じゃなくてよ!オマエを除いた一般人の話だ、飛び起きるよな!?』
「・・お、おぉ…多分?」
コイツと世間一般を一緒に考えてはいけない。
そう改めて確信したサンジは半ば脅すような口調で再び問いただせば、ルフィは曖昧な顔をしながらもコクリと首を縦に降った。
よし、と満足げに頷いたサンジは、おもむろに右手を口元によせて指先で唇の膨らみを撫でた
『んまそういうこった。
ようは、寝ているオレの元に今まで感じたこともねぇ強烈な衝撃が襲って飛び起きた。
オレ達精霊が云うところの眠りを覚ます方法は本来一つしかない。それなのに、オレは目を覚ました。』
「つまりは・・寝込み襲われてビックリしちまったってコトか?」
『っ・・・いや、…単純に云えば、そういうこと、になるのかね…』
寝込み襲われ…オレにとっちゃまさにその通りすぎて返答に困ったが…。
ともかくオレの言い分にようやくルフィは納得がいったのか、そっかそっか!そういうことだったのか!と無邪気に喜んでいる。
「んじゃー、今はビックリしねぇからサンジのカップを使っていいってコトか?」
『あ、あぁ…オマエさえ、良ければだけど』
やはり本当のところは切り出せなかったサンジ。
“オマエがティーカップを使うと、まるでキスしてるような感覚がするんだ”
なんて、野郎のカッコしたオレに云われて、嬉しいと思うワケがない。むしろ嫌がられるに違いない。
そんなコイツにとって何の得にもならねー事実なんて伝えなくたっていい。オレはただ、コイツの役に立てるのなら、それで十分なんだ。
なのに・・・
『・・・なんか、イテェな』
「サンジ?」
――胸が、苦しい。なんだろう、この感覚。
ズキズキと軋む胸をギュッと押さえる。なかなか痛みは引いてはいかない。
「どうした、サンジ。
急に胸押さえて、苦しいのか?」
『・・・なんでもねぇよ、心配すんな』
「・・・。」
この胸の痛みの正体に、気付いてはいけないような気がした。
気付いてしまったら…きっと、オレはコイツを不幸にする。
たかが精霊。物に宿った擬似人格。
人間に、そんな感情を抱いてどうする気だというんだ。
「それ、サンジの悪いクセだな」
『…は?』
「ハッキリ言えっていってんのに、すぐ隠そうとする」
『ルフィ…?』
「よし、決めた。」
胸の痛みと戦っていると、ルフィが急にオレを持ち上げて中に張られていたミネラルウォーターをお椀へと移す。
振り返ったルフィは冷蔵庫で冷やされていたあの麦茶入りのペットボトルを手に取り、遠慮なくティーカップへと注いだのだ。
一瞬感じたカルキ臭とうっすら感じ取れる程度の麦茶の味に眉を寄せたサンジが水面に浮かび上がるのも待たず、ルフィはティーカップを口元へと寄せた。
『ちょ!おま、心の準備がっ!!』
「うっせぇ、」
一気にカップの中の麦茶を煽るルフィ。
カップとルフィの唇が接触した瞬間、サンジに襲い掛かった柔らかな刺激にうっと小さく呻きながらもその甘い刺激に身を委ねた。
影も形もないその何かが、口腔の全てを撫でまわし吸い上げていく。ブルリと身震いしながらもその感触に耐えた。
カップすれすれ程度に麦茶を残して離れていったルフィを、サンジは惚けた顔で見つめ返した。
わずかに目元を紅く染めたサンジを気にしながらも、ルフィはティーカップをちゃぶ台へと置いてから立ち上がる。
何故か仁王立ちで。
「いいかサンジ!
この件に関しては、オマエの言い分はもう聞かねーことにした!」
『はっ…何?』
「まだおれに話してないことがありそうだけど、
オマエが使っていいっつったんだ。なら、おれは言葉通り使わせてもらうだけだ」
『……おぅ』
「あと、一つだけ言っとくぞ」
『ん・・?』
するとルフィは一呼吸置いてから、いやに真剣な面持ちでサンジを見下ろした。
「おれは誰にだって親切なわけじゃねー。むしろちっとも優しくなんかねーんだ。
どっちかといえば自分勝手な方だってみんなからもよく言われてる。
……オマエだから、大切にしてるんだ。」
『・・・っ』
「其処にいるのが“サンジ”だったから、どんな事だって叶えてやろうって気になるんだ。」
それだけは、覚えておけ。
ルフィはティーカップの側面に触れてくる。ことさら、優しく…愛おしむかのように。
オレを見つめるルフィの瞳が優しげに孤を描く。トクンと、鼓動が高鳴った。
『ルフィ…』
「おれ、皿洗ってくる。」
と、ルフィは夕食の皿を持ち上げて台所に向かう。
その背を、サンジは自身の領域である水面の壁ギリギリにまで近づいて見送った。
頬を染めわずかに瞳を潤ませる彼の表情はまるで、恋をしたような甘く切ない雰囲気を漂わせていた…。