アンティークに愛されて 3





夕暮れに紅く染まった日の光が、徐々にその姿を消していく。
完全に閉ざされ、辺りが闇一色に染まるこの空間で過ごすようになってもう何日経っただろうか。

暗闇が訪れる時刻になるとサンジは決まってティーカップの中で身を小さく丸め、蹲るようになった。
もうすぐアイツが帰ってくる。それまでの辛抱だと。彼はそう、何度も自分に言い聞かせて…。

彼にとって、闇は恐怖を煽るものでしかなかった。
暗い場所が苦手なわけではない。霊的なものが怖いわけでもない。


彼が、一番恐れているもの…それは、

(……こうしてまた、忘れられちまうのか?)


"忘却"


――人間の赴くままその身をただただ任せていたその昔、とある庶民風な家庭に貰われたことがあった。

貰われてすぐの頃は高級感溢れるお洒落なティーカップを大層珍しがって、神棚なんて恐れ多い場所にまで飾られてしまうほど大切に扱われていた。
が、所詮は骨董品。暫くすれば物珍しさが失せてしまい、場所を次々と移され…最後には食器棚の奥の方へと押しやられてしまっていた。
いつかまた、明るい陽の元に出してもらえる事を願いながら、オレはただひたすら時が過ぎるのを待った。

そうして数年経った頃、その一家が引っ越すことになり大々的な荷造りが始まった。
何年か振りの日差しを浴び、家主の手に抱えられ、ようやく願いが届けられたと喜ぶオレを待っていたのは、使い古したカビ臭いダンボール箱だった。
包装もそこそこ、雑に重ねられたホコリまみれの食器達が並んだそのダンボールの中で、引越し先の家に着くまでの辛抱だと何度自分を言い聞かせただろうか…。
しかし、オレの想いは、彼等に届かなかった。
引っ越し先には無事に着いたものの、使わなくはなってしまったがなんとなく残しておきたい部類の食器達が向かう末路は、大抵決まっていた。

そう。オレの居たダンボールは荷解きされることのないまま、新居の物置小屋へと直行したのだ。


(アイツに、この家を馬小屋だなんて言ったけど…
それより比べ物にならない世界を、オレは今まで沢山見てきたじゃねーか…)


――何が"育ちがいい"だ、笑わせんな。


(謝るから…、アイツの大事な飲み物を侮辱したことも、
ホコリが乗るとか我儘言ったことも、全部…だから)


――前みてえに、オマエと話がしてぇよ…


そしてふとサンジは、アイツが言っていたコトバの意味を理解した。


『本当だな。名前知らなきゃ、
オマエのこと、何て呼んだらいいか分かんねーよな…』


次はいつ話せるのだろうか?
もう二度とアイツと話せないとしても、せめて名前が知りたい。

アイツが忘れてしまったとしても、
オレがずっとアイツを覚えていられるように…

初めて人間とコトバを交わし、食器として使われることの素晴らしさを教えてくれた。
仲間と逢わせてやると、言ってくれた。この先の未来に、ほんの僅かながらも希望を与えてくれた。


『…知りてえよ。オマエのこと、全部』


ポツリと呟いた言葉は、ただ静かに、闇へと溶けた。



―*―*―



今は何時ぐらいだろう?サンジはその時すでに異変を感じていた。

アイツの帰りが普段よりも遅いのだ。とはいえアイツも大学生。
友達との付き合いで多少遅くなるということはこれまでにも数回あったのだが、それにしたって遅すぎる。

(…事故に遭った、とかじゃねー、よな?)

こうも暗い世界に長時間居続けると次第にマイナス思考になってしまい、確率が極端に低い事態でさえ容易に想像出来てしまう。
そうそう在りもしない出来事で、勝手に心音が上がり、額からはうっすらと汗まで浮かんでくる始末だ。

本当に多くは望まない。
この先、この引き戸が開かれなくとも構わない。

だから…

(早く帰って来い…
無事な姿さえ見せてくれりゃそれだけでいいっ!)

祈るような思いで全意識を音に集中させてからどれぐらい経ったのだろうか。

心の底から待ち望んだその人物はサンジの突拍子もない想像とはかけ離れ、彼は扉を蹴破らんが如く、普段以上に元気一杯といった様子で帰宅した。
急ぎ足で部屋へと走り、日課となった手洗いうがいもせずにガサガサと、ビニール袋らしき音を派手に鳴らす。一通りの物を袋から出し終わったのだろう、そこでようやく彼は真っ暗な室内に灯りをともした。

音だけを頼りに彼の様子を必死に探っていたサンジは、彼が無事で良かった…と、安堵の息を漏らした。その瞬間。


――ギシッ

『っ!?』

目の前の引き戸が軋む音をあげたと思った矢先サンジは目映い光に照らされる。いきなり光に満ち溢れた世界へと引きずり出されたサンジの動揺は凄まじかった。
だが確かに、自分は今アイツの手に支えられてちゃぶ台へと向かっていて。

(こんな早くに手入れの時間か?帰ってきてすぐにする事か?なにより手入れ用品は確か台所に置いてあるんじゃ…。)

混乱しているうちにちゃぶ台へとティーカップが置かれる。アイツは未だ黙ったままで、カップを置いた後ちゃぶ台の下に手を伸ばしゴソゴソと何やら作業していて…。
まだ目が光に慣れていない所為か、アイツの表情がぼんやりとしか見えない。

(…クソっ、せっかくのチャンスなのにこれじゃあコイツに気付いてもらえない…)

彼がこれからしようとしている事にさえ考えが回らないほど気が焦っていたサンジは、次の瞬間、身体がふわりと軽くなるような感覚を得る。
凄く柔らかい羽毛に包み込まれているような、カラッとした太陽のもとで爽やかな風に吹かれているような…



「サーンジ、」

あまりの心地良さに思わず浸ってしまっていたサンジは、頭上から降ってきた彼の声にハッと表情を一転させ、恐る恐る声のした方を見上げた。
其処にはサンジが想像していた怒りや、悲しみを一切感じさせない……屈託ない笑顔を見せる彼が居た。

「サンジー!ひっさしぶりだなーっ!!
…あ、サンジからはそうでもなかったんだよなっ、しし」

以前とまったく変わらない様子で話し掛けてくるルフィに、サンジはどう返せばよいか分からず、口を開いては閉ざすを繰り返す。
一向に口をきこうとはしないサンジに、ルフィは不思議そうに首を傾げてみせた。

「サンジ?どうした?
…まさか、話せなくなっちまったのかっ」
『ち、違う…。話せる、』
「おお、サンジの声だっ。
おれ今メチャクチャ焦ったぞ〜、間違ったもん買ってきちゃったんじゃねーかって」
『…なにを?』

するとルフィはにししと特徴ある笑い方をして、じゃじゃーんと自前で効果音をつけつつ、ちゃぶ台の下から取り出したペットボトルを掲げて見せた。パッケージには、○○の天然水とかかれている。
瞬間、サンジはこの状況を把握した。が、問わずにはいられなかった。


(まさか、)

『オマエ、それ…っ』
「聞いて驚けよサンジっ!明日からこの水注いでやれるようになったぞ!
ダンボールに6本セット×2ケース分明日届けてもらえるように頼んできたからなっ!こんだけありゃ1ヶ月は余裕で保つよなーっ」
『そうじゃねえ!
オレが言いたいのは、そのミネラルウォーターって、まさか』


(まさか…っ)

サンジがあまりにも必死な様子で尋ねてくるから、ルフィはどもりながらもサンジの問いに答えた。

「…何って、サンジのために買ってきたんだぞ?やぁーっと給料日でお金入ったしな♪」

ほらほら、貰ったばかりだから分厚いだろー?とルフィはサンジに向けて給料袋を自慢げに見せびらかす。
が、サンジはそれどころではない。ミネラルウォーターのボトルをみた瞬間に浮かんだ仮説が見事に的中、しかしそれまでは予想だにしなかったサプライズに、ただただ放心するばかりだった。


(コイツは、
…目の前の、コイツは、…)

オレの小言に腹を立てていたわけではなかった。
貧乏と言われて悔しがっていたわけでもなかった。


『…オレをあの棚に押し込んだのは、…ホコリがつかねぇ為の対策か…?』
「おれ部屋掃除すんのニガテだからよ〜、嫌がってんのは気付いてたけど、ホコリ舞ってねぇ場所ってそこぐらいしか思いつかなくてな。
あっ!ずっと無視しててゴメンな?サンジのビックリした顔がどうしても見たくてさ、今日までガマンしたんだ!」

(コイツは、オレの我侭を叶えてくれただけだった…
子供のように無邪気に、驚かせたかったんだとイタズラを仕掛け、本当は早く顔が見たかったんだと笑いかけてくる…)


「おれ言っただろ?おれがしてやれる事はなんだってしてやるって。
ま、サンジが思ってたのとはちげかったかももしんねー、でも、これが今おれに出来る精一杯なんだ。…ダメだったか…?」
『・・、ダメな、わけ・・ねーよ』

内から込み上げる暖かいモノに胸が一杯になって上手く言葉が返せない。
それでも目の前のコイツの表情が僅かに曇ったのを見てしまい、なんとか言葉をつむぐ事が出来た。

嬉しかった。コイツの優しさが。
ただの無機物な存在に対して、親身になってくれた暖かさが。


(思えばコイツはいつだってオレを第一に考えてくれていたじゃないか。
…それなのに、オレは嫌われる、忘れられる以外の未来を、想像すらしなかった…。)

「おれな、サンジがウチに来てくれてすっげぇ嬉しかったんだ。
サンジが来るまで、この家はおれ一人でさ、話し相手とか居なくてすっげぇ寂しかった。」
『・・・』
「でも今は寂しくねぇ。帰ってくればサンジに会える。
ただいまって言ったら、声聴こえなくても、ちゃんと返事してくれるヤツが居てくれるんだもんな!こんな嬉しいことはねーよっ」
『!!おまえ、…なんでっ』
「んんーー、なんとなくだ!なんとなくな、サンジの声が聞こえてくるんだ。
気のない返事だけど、あぁ、とか、おお、とか言ってくれてんのが分かるぞ」


自信満々にそう答えるコイツに、今度は急に笑いが込み上げてきて。

(コイツって、なんかスゲェわ。勝てる気がしねぇ…。)

コイツの傍に居れば、本当に仲間達と再会が果たせるのかもしれないと、何の根拠もないのにそう思えてしまうほどに。
急に笑い出したサンジに、ルフィはヘンな顔をしてカップの中を覗きこむものだから、サンジはまだニヤけてしまう顔をそのままに慌ててルフィを見上げる。

『そうだな、オマエならオレの声が届いてたって話も信じられそうだ。』
「んん??ほんとーに信じてんのかぁ?」
『あぁ、信じた信じた。・・それよりも、なぁ』

ん?と目を丸くしたソイツに、サンジはずいっと身を乗り出す。
といっても向こうから見たらほんの少しアップに映るようになった程度の事かもしれないが。

『ありがとな・・、オレの為に色々考えてくれて。』
「・・サンジがいつになく素直だ。」
『なっ、人が素直に礼してるってのにそーいうこと言うかぁ!?』
「わ、悪い…。いやさ、サンジが気にする事なんて一つもねーんだぞ?このさきずっと一緒なんだ、不満ができたら遠慮なく言ってくれりゃいい。
出来ねーことはできねぇってキッパリ言うけど、出来そうなことだったら全力で答えてやる!そのかわり、これからもサンジはおれの話し相手になってくれよな!」

『今はその程度しかしてやれねぇのが、辛いぜ。』
「んん??」
『…なんでもねーよ。』

ぽつりと漏れた自身の言葉に、おもわず面喰ってしまった。
が、どうやら相手には聴こえてなかったらしく、ホッと胸を撫で下ろしてからサンジはこれだけは言っておかなければと表情を緩めた。

『一生懸命考えてくれたとこ嬉しいんだけどよ…。
この前オレが愚痴ったのは、そうなったらいいな程度に、ただ言ってみただけっていうか…。』
「うん」
『だから、オレは別に・・水道水でも我慢出来るし、あの極う・・・いや、麦茶だって嫌じゃねぇ。ホコリだってもう気にしたりしねーよ!
オマエがオレに気を遣ってくれたように、オレもオマエの生活に合わせる…、だからもう…』
「棚ん中は嫌、なんだろ?うん、分かってる。」

するとソイツは椀皿だけを手にとり、以前オレが置かれていた場所に皿を置いた。
オレの方を振り返ってニッと笑ったソイツは、

「サンジの居場所はここな?ここが一番よく見渡せるだろ?」

と、そう言ってくれた。
本当にコイツは、オレの思っていることを何でも分かっているようで・・。

『・・・あぁ、そこが一番、落ち着ける』

彼の枕元。サイドテーブルへと置かれた椀皿に、サンジは目を細めた。
あの場所にまた居させてもらえるんだと。あの場所でコイツの生活風景を眺めてていいのだと。許された証拠なのだから。

『あ、なぁ…』
「んん??」

カップを持ち上げて椀皿のある場所に下ろされようとしていた直前、オレはソイツの顔を見上げて、問いかけた。
あまりにも今更すぎる問いかけに、ソイツは目を見開いたが急に可笑しそうに微笑んで、あぁ、やっと聞いてきたか!と嬉しそうに答えたのだ。

「な?おれが言ってた意味、分かったろ?」
『・・そうだな、確かに、困る。』
「にししっ、いつ聞いてくれんのか、ワクワクして待ってたんだよな!」

そういいながら、ソイツはオレを椀皿の上へと置くと台所の方へ歩き出した。
結局答えないのかよ!とその背を恨めしく睨みつけていると、その声がまるで届いたかのように人間はくるりと踵を返して、


「モンキー・D・ルフィだ。ルフィでいいぞっ」


と、機嫌よく答えてから、「この前のサンジの真似だっ」と付け足して、ルフィはトイレへと向かっていった。
はて何の事だ?と過去の記憶をたどってみれば、あぁそういえばオレも自身の名前を名乗った時、こんなカンジで姿を消したんだっけか、と思い至り。



『・・んなの真似して、何が楽しいんだよ…“ルフィ”。』



皮肉めいた言い方をしたつもりなのに、妙に言葉が弾んでいたのはオレの気のせいではないんだろうな…。

《3》

しれっと落としていく天然タラシで有名なルフィさん。
彼の何気ない言動で毎時ときめいてしまうサンジとか想像した瞬間、鼻血が出そうになりました。