雨よけの成就 3





それからどれくらいの時間が経っただろう。
徐々に薄暗くなっていく室内にしとしとと響き渡る雨の音色は、次第に強くなっているようだった。

その間、ルフィはずっと体制を変えないままサンジが落ち着くまで抱きしめ続けていた。不安定な足場での中腰は長い時間続けば辛いものがあるだろう…。
離れがたい気持ちをぐっと抑えサンジはルフィを軽く押しのけるように身体を起こした。自然と見上げた目線の先にルフィの真っ黒な瞳とかち合う。その瞳は“もう平気か?”と問いかけるように細められた。
スンと鼻を啜ったサンジは照れくさそうに目を逸らし、思い切り腕を突っぱねて背筋をゆっくりと伸ばした。

「…似合わねェな、それ。」
「ん?…あぁ、ズボンか?ハハっ、ホントだなぁ!」

学生服以外は季節を問わず半そで半ズボンで過ごしているようなヤツなので、肌にピッタリ張り付くようなレザーパンツなんか一度も履いた事がないのだろう。
ルフィは若干動きにくそうに体勢を崩しサンジの真横に胡座をかいて身体を傾けサンジの顔をじっと覗きこんだ。その表情は、先ほどのおどけた様子とは違い、顔つきは何処となく強張っており大人びたルフィの表情に思わずドキリと胸が高鳴った。

「サンジ、…何か、あったか?」

遠慮がちに尋ねるその声には、いつものルフィらしさがなかった。
余り耳にしたことのない緊張感が混じったその声音に、相当心配かけさせてしまったようだとサンジは申し訳ない気持ちで一杯になる。

「なんだよ…、いつもならオレの傷ついたガラスのハートに釘刺して、あげくハンマーでぶっ叩くような真似ばっかしやがる癖に、妙にしおらしくしやがって」
「…オマエの“涙”、…見んのすげぇ久々だったから」
「・・・。」
「涙見られんのだけはすげぇ嫌がるおまえが、隠す余裕もねぇぐらい…辛いんだって、言ってるような気がした」

こうしてルフィに泣きべそを掻く自分の姿を見られるのは今まで何度もあった。
けど、実際泣いている証拠である“涙”をルフィに見られるのは、おそらく両手で数えられる程度しかない。

…情けない姿をルフィには見られたくなかったんだ。同年代のヤロー相手に縋りついている時点で十分情けないんじゃないか?といわれるかもしれない。
それでもオレにもなけなしのプライドというものがあって、ダラダラと溢れる涙だけは絶対にルフィに見せはしないと、心に決めていた。


――泣き虫だと、思われたくはなかったから。


目の前にスッとルフィの指先が伸びてきて、親指の腹がサンジの目尻に溜まった大粒の涙を掠め取る。

「サンジの涙は、キラキラ輝いててキレイだ。ずっとみてたって飽きねぇ。…けど、やっぱイヤだ。」
「なんだよ、それ…」
「泣いてるサンジをそのままにしとくのは、いやだ。」

サンジの涙に濡れた指先が、少し腫れて赤くなった皮膚を労わるように撫でていくと、サンジは其処に刺す様な痛みを感じたのか目尻をかすかに震わせた。
男にしては少々眺めの睫毛が下がるのをルフィは見逃さず、慌てて手を引っ込めて「わりぃ…」と小声で呟いた。
その様子があまりにも悲しそうで、咄嗟にサンジは彷徨っていたルフィの手首を掴んでしまい、掴んだものの、何処に導けばいいのか戸惑ってしまいとりあえず自分の膝の上へとルフィの手を誘導した。
ルフィが不思議そうな顔をして自分と、誘導されたルフィの手を見つめるものだから、サンジは居た堪れない様子で咳払いを一つ零し、ルフィの意識を自分に向かせた。

「痛くねぇから、その、平気だ…、」
「…サンジ、」

サンジの名を心配そうに呟いたルフィ。
いくら平気とサンジがいっても、様子がいつもと違うサンジがどうしても気になってしまい、ルフィは眉間に刻んだ皺の色を濃くさせる。



もう、すべて、ぶちまけてしまおうか。

このままルフィに心配をかけてばかりな自分も、

消火しきれない想いを抱えてうじうじする自分も、


―― ご免だった。


「ルフィ…、っ」

ルフィからは奥側にみえる方の腕を伸ばし、膝に居心地悪そうに乗せられていたルフィの手を掬い取って勢いよく自分の方へと引っ張る。
突如強い力で引かれたルフィの身体は自ずとサンジに向かって倒れこむように崩れた。緩やかに折り曲げられていたサンジの膝に干されるような形で横たわったルフィ。
ルフィは「いきなり何すんだよ…っ!」と驚いた様子で顔をあげた。
けど、一度箍が外れてしまった想いはもう止まらなかった。興奮しているような、切羽詰ったようなサンジがぐっと距離を詰めてきたのにルフィが驚愕の表情を浮かべる中、サンジは叫ぶようにその膨れ上がる想いを口にした。


―― 何年、何十年と掛かって、ようやく見つけたオレの真実を、ルフィに伝えたい……!


「いきなり、こんなこと言うのはどうかしてんだろって思うだろうがルフィ…っ!
好きだ、っ…!オレっ…オマエの事が、好きなんだよっ!」

「・・・っ!?」

「分かるぜ、驚いたんだろ?それとも退いたか??
あんだけレディ達にむかって好きだ惚れただの騒いでたヤツが、ある日突然、幼馴染の野郎相手にムードのカケラもねぇ愛の告白とか…、こんなの、冗談にしか聴こえねェよな?」


後先考えず、サンジはただ想いのままに突き進んでいく。突如豹変してみせたサンジに、ルフィは戸惑いを隠せない…。


「まてサンジ、ちょっと落ちつ」

「途方もねぇ時間を掛けて、恐ろしいほど遠回りしておいて…。
そんでも気付けなかったってのに、オレの居場所を脅かされるんじゃねーかと危機感に駆られた途端、こうもアッサリ自分の本心が見えちまうなんてよ…っ」

「…“おびやかされ”?なんのことだサンジ…ってか、近っ」

胸の内に溢れた想いを一気にぶつけていくサンジ。徐々に熱が入っていくサンジはどんどんルフィへと急接近していく。
サンジの身体に寄りかかったままという不安定な体勢で、もう互いの顔がアップに見えるこの距離感に焦りを覚えはじめるルフィ。


―― このままサンジのしようとしている事を黙って見過ごしてしまえば。


―― きっとダメだ、とルフィの頭の中で警鐘が鳴り響いた。



「好きだ、ルフィ……おまえのことが、一番……好」
「っ…!!!
ダメだサンジっ!!止めろっ!!!!!!」

その瞬間が間近に迫ったと察知したルフィは、反射的にサンジをおもいきり押しのけた。
ベット際の壁へと腕を突いてサンジを張り付けにしたまま、ルフィは膝に力を入れてなんとか身体を起こして一息ついた。

危なかった…、と荒くなった息遣いを整えていると両腕で押さえつけていたサンジの身体が小刻みに震えだした。
慌てて顔をあげれば、サンジは自身の肩に鼻先が付いてしまいそうなぐらい、ルフィから顔を背けていて。右を向いていたので目元は確認できなかったが再び鼻を啜る音を聞いた途端、ルフィはハッとしてサンジの顎に手を添えた。
此方をむかせようと力を入れるも、サンジの頭はぴくりとも動かない。ルフィは慌てた。

「ば、っ、ちげぇ!ちげぇぞサンジ!!勘違いすんな!」
「…ハッ、勘違いだぁ?…オレの本気をただの勘違いで流そうとすんのかよ……。
テメェに彼女が出来た途端、野郎の幼馴染なんてどうでもよくなったか?クソ重てぇ厄介な気持ちは、勘弁しろってことか…!?」
「彼女?…さっきから何ワケ分かんねぇ事ばっか言ってんだよっ…!とにかく、落ち着けサンジ!」
「ッ、離せよっ!!もう、オレに構うんじゃねーよ!!」

ルフィの手を強引に払いのけると、サンジはそのまま立ち上がろうと身体に力を入れた。そんなサンジをルフィは全力で押さえつけてその場に留めようとする。
どちらも相当な馬鹿力を持っているため、互いの身体には痛々しい鬱血の痕が刻み込まれるも決着は一向につかない。

いよいよサンジが自慢の足を使って抵抗しはじめたので、ルフィは少々荒っぽい方法でサンジを落ち着かせようと行動に出る。
サンジの両肩に手を置いて、ぐっと力を込めて押さえつけたルフィはそのまま上体を前に突き出してサンジとの距離を急激に縮める。


「サンジ!!!痛くても、おれはしんねーからなっ!!」
「うるせっ、どけっ………っ!?!!」


―― ベロリ


ルフィの舌が急にサンジの目の前に迫ってきたと身構えた瞬間、あろうことかその生暖かい感触は目尻の腫れあがった部分を舐めあげていったのだ…。
ヒュッと息を呑んで固まってしまったサンジに、どっと疲れたように溜め息を零してからルフィは反対側の目尻にも舌を伸ばした。

舌が目尻を這うたびピリピリとした刺激を感じるも、傷を癒すように優しく触れてくるその舌先にサンジは強張っていた身体から力を抜いて、そしてゆっくりと瞼を落とした。

「、……落ち着いたみてぇだな」
「バカ野郎…、別の意味で落ち着かねーよ。バクバクいってるオレの心臓、なんとかしやがれ…」
「してやりてぇトコだが、その前にちゃんと話しよう、な?」
「も、好きにしてくれ…」

ペロペロとひっきり無しに這わされる舌の感触が、癒される心地よさからだんだんとやらしい想像を駆り立てられる要素にすり替わりつつあったサンジは頬を赤く染めて呟いた。
ルフィが離れていくと、暴れていたことも相俟って軽い酸欠状態にあったサンジは、後頭部を壁に預けて深呼吸を繰り返した。一気に新鮮な空気が肺へと送り込まれて、急激に上昇していた体温が徐々に引いていくのを感じる。冷静さを取り戻したサンジは自分とは思えない積極的過ぎる行動を思わず振り返ってしまい、ブンブンと頭を振って記憶を無理矢理払いのけた。
その間、ルフィはなにやら深く考え込むように俯いていた。時々、うーんという唸り声まであげるほど、いつになく真剣に悩んでいる。
その様子から、この後ルフィからなされる話とやらは、自分にとってはあまりいい内容ではなんだろうな…と、サンジは表情を曇らせた。

「…なぁ、サンジ。色々云いてぇことは山のようにあるんだけど…さきに訊いてもいいか?」
「なんだよ、」
「“おびやかされる”って…どういう意味だ??」

頭上にクエスチョンマークが見えそうなぐらい、眉を寄せて小首を傾げたルフィにサンジはずるっと体制を崩した。
多分これは“脅かされる”って単語自体を理解していないって顔だ。顔にそう書いてある。間違いない。
こいつに1から辞書片手に国語の授業をしてやる余裕は、今はない。そこでオレはどうしたかといえば単刀直入にオレが心を病んでいる原因について、話してみることにしたのだ。

すると、どうだ。

「おれとビビが付き合ってるんじゃないか、だって?それでおれがなんでサンジを除け者にしなきゃなんねーんだ?
そもそもおれとビビは付き合ってねーし、仮にそうだったとしても恋人を大事にすんのと、サンジを大事にすんのとじゃ全然ちげぇじゃん」

と、真顔で返されてしまいサンジは思わぬ答えに唖然と呆けてしまった。

サンジの中では、もうルフィとビビは付き合っているものだと決めにかかってしまっていた。つまりは自分にとって最悪なシナリオ以外頭に浮かばないほどに、余裕を無くしてしまっていたという事なのだが。
一度暗いほうに考え込んでしまえばずるずると他のことまで悪く考えてしまう。まるで蟻地獄のようだと頭の片隅で思いながら、サンジは「じゃあ…」と続きを話した。

「ルフィ、おまえ…いま彼女とか、いんのか?」
「いねーぞ?」
「欲しい、とかは…」
「ねぇな」
「・・・そ、うなのか」

その言葉に、サンジは物凄く安心していた。
ルフィに彼女は居なくて、欲しいという気持ちも無いのであれば、サンジの考えていた最悪のシナリオは免れたことになる。

が、しかし。
それは“今”だからという話であって、今後ルフィが心変わりしないという保証は何処にもない。

ルフィが誰とも付き合っていない“今”ならば。
それは逆にいえば“今”しかないともいえた。

「しつこく言うようだけど、…ルフィ、オレはオマエが好きなんだ。多分、出会った瞬間から…かけがえの無い存在だったんだ。
でも今までオレはそれを“友情”だとばかり考えてた。…オマエに、オレ以上に大切な相手が出来たんじゃねーか、そう考えた瞬間オレの中で“友情”って言葉が崩壊して…、自覚したんだ。」
「うん。分かった」
「・・だからっ!もうちょっとマシな受け答えねぇのかってっ…!!オレは真剣におまえのことをっ」
「本当に分かってるって!でもなサンジ。おまえ、おれに告白する前に大事なこと忘れてんぞ」
「・・・だいじな、こと?…なんだよ、一体」

思い当たる節がすぐには見つからなくて、本気で分かっていない様子のサンジに対してルフィはムッと怒りを露わにしてから、ポカンと目の前の頭をグーで殴ったのだった。
力加減を知らないルフィのグーパンチは容赦なくサンジに強烈なダメージを与えた。痛みにウッと一瞬蹲ったサンジは、殴られた部分を押さえながら上目遣いにルフィを睨みあげた。

「痛っ!!なんだよ、何殴って」
「あのなぁ!!?
おれには彼女居なくても、おまえには居るだろうがっ!!いま、一番、大事にしねーといけねぇヤツがっ!!!」

怒気を含んだルフィの言葉に、サンジはパンチ以上の衝撃を受けた。
同時に思い起こされたのは、数時間前…ボーリング場を去る間際に見た、心配そうな彼女の表情…。


―― そうだ、自分はとんでもない失念をしてしまっていた…。


「コニス、ちゃん……」
「そうだ。忘れるなんてひでぇヤツだな、」
「………。や…、…言い返す言葉が、見つかんねぇ…。……面目、ねぇ…」
「それ違ぇだろ。謝る相手を間違えてる」
「そう、だよな……ルフィの言うとおりだ。…いくらテンパってたにしてもオレは、…なんて、失態を…っ…」

もしも、ルフィが止めてくれていなかったら…。
膨れ上がる激情のままに身を任せていたら…。

心優しい彼女を…、コニスちゃんを、酷く傷つけてしまう結果を招いていたかもしれない。いや、間違いなくそうなっていた。
それは、仲間想いのルフィや、他の仲間達さえも苦しめる事になっていただろう。自分の浅はかさな行いに、サンジは胸をぐっと押さえ込んで俯いてしまう。


そんなサンジをルフィは真横からじっと見つめていた。

おれはサンジが好きだ。
距離をとると決めてからも、その気持ちは決して変わることはなかった。…でも望みなんて最初から持ってはいなかった。

女性主義者という名の無類の女好きで、仲間や幼馴染というポジションが無ければ男など好き好んで相手にしない。そういうヤツなのだ。
サンジの事が好きだと自覚してからは、逆に幼馴染という位置付けが辛いと感じた事がある。
むしろ幼馴染以上に近すぎたおれたちの距離に、苦しさを感じた事だってあった。

いっそ、他の男相手のように辛辣に扱ってくれればいいのにと、思ったことだって少なくない。



サンジからの予想外の告白を聞いて、率直な感想は …―― 嬉しいに決まってる



今すぐにでも、おれも昔からサンジのことがいちばん好きだった、と告げたかった。

でも、それじゃいけないのだとルフィは知っている。毎日毎日、飽きる事なく幸せそうに並んで帰っていく二人を、ルフィはずっと見てきた。
似合いのカップルだと、この二人なら絶対上手くやっていけると疑わなかった。相手がコニスだったからこそ、サンジを任せても大丈夫だと思えたのだ。

正直、サンジの気持ちを訊いても尚、これからもコニスと恋人同士で居てほしいと願う自分も確かにいるのだ。


微かに震えだした小さくなった背中を、ルフィはただじっと見つめるだけだった。
いつもなら抱きしめてやる。震えが落ち着くまでずっとくっ付いて、離してやらないけれど…。

今ここで、手を差し出すのは間違っている。
これはサンジが決断することであって、ルフィが手助けしていいことではないのだから…。



心を鬼にして、ルフィはサンジに最後の質問を投げかける。

おそらく、今一番サンジが訊かれたくないであろう事を、サンジ自身に決めさせるために……――



「おまえは今日まで自分が泣かされる目にあっても、女を傷つけたり悲しませたり…ましてや泣かせるなんてことはしなかった。
おれはそれをバカだって笑ったけど、考えてみたらなかなか出来ることじゃねーって、気付いた。そんだけ、サンジは心が優しくて、強ぇヤツだってことをおれは知ってる。

サンジのその想いは、必ず…コニスを悲しませるし、傷つけることになる。…泣かせちまうかもしんねーんだ。

―― それでもおまえは、…おれを、選ぶのか。」

《9》