サンジは迷わず右手の廊下を進みはじめた。久しぶりに観たいのだ、幼い頃から憧れていたバラティエの厨房を。
子供の頃、サンジにとって厨房は見るもの触れるものすべてが新鮮で、夢で溢れていた。
天井までつきそうなほど燃えあがる炎にも動じず、中華鍋を華麗に振るう姿。丸々としたキャベツを、目にも止まらぬ速さで細長い線のように切り刻んでいく姿。
最初は一つ一つがバラバラだった食材達が、コック達の手によって芸術とも呼べる美しい数々の料理に変わっていく様子は、まるで手品のようだった。
厨房は、そんな彼等が日夜闘う聖域といえる場所。あの頃から眩く感じていたあの世界は、今でも色褪せる事無く光り輝いてるんだろうな…、と厨房に近づくにつれ次第に胸を躍らせはじめるサンジ。
だが、厨房前の暖簾に手をかけたその瞬間。中の異様な空気に気が付いてサンジは飛び込むように中へと踏み込んだ。
「なん、だよ・・これ…」
そこには以前の光に満ち溢れた厨房の姿ではなく、サンジが踏み込んだときに舞い上がったであろう塵がまるで霧か靄のように宙を漂っていた。そこかしこにホコリが積もり、調理台に指を這わせばホコリが指先に付着して指は真っ白に染まってしまった。
どう考えても、もう何年も使われていないようなその場所の雰囲気に、サンジが放心していると僅かな風が首筋をすっと撫でていった。
「…何しにきやがったんだぁ、チビナス」
聞き覚えのある、ずいぶんと懐かしいその声に途端目を見開いたサンジが勢いよく振り返る。
其処にはやはり声を聞いた瞬間に思い浮かんだ人物が立っており、しかし、想像した姿よりも幾分かやつれた印象を受けるその相手に、サンジは面くらいながらも食って掛かった。
「クソジジィ!・・これは一体どういうコトだよっ…それになんだよ、テメェのその覇気のねぇ面!」
「相変わらず、口が悪ィなチビナス。見て分かんねぇか?この店は、潰れたんだよ。」
「そんなっ、…!バラティエが、潰れた・・!?ありえねぇ!!」
「テメェが信じなくとも、テメェが目にしたもん…それが真実だ。」
その言葉にサンジがぐっと息を詰め押し黙ってしまうと、ゼフはやれやれと肩を竦めてサンジの横を通り過ぎた。
調理台の下でホコリを被った丸椅子を引き出して、その重たい腰をどかりと預ける。瞬間、ぶわっとホコリが舞った。
「久しぶりに顔見せたかと思えば、その生意気な口は未だ健在か?ちったぁ成長したのか、テメェ。」
「うるせぇ、クソジジィ…!テメェが、くんなっつったんだろうが…」
「………あぁ。そういやァそんなコト言ったかもしれねーな。」
「なっ…!」
忘れてたのかよっ!と思わずサンジは噛み付いた。これまでのオレの苦悩は一体なんだったんだ、と…。
するとゼフは鬱陶しげに眉を寄せ、忘れてたわけじゃねぇ早とちりすんな。と呟いた。
「…あん時はその方が良かったんだよ。テメェにはな…?
店が潰れたのがいつだったか話してやる。…テメェを店から追い出した、数週間後だ。」
「…っ、そんな!」
「営業不振ってヤツだな。テメェが居付くずっと前から、店は傾きつつあった。
そんでもテメェんとこの親が贔屓にしていたり、他にも常連がいてくれて何とか維持してこれたんだ。
けど、時代は変わるもんだ。…値段の張った高級店で食事するより、低価格でボリュームのある定食屋なんかに客を持ってかれて…とうとう、行き詰っちまったってワケだ。」
「・・・。」
「テメェが店を気に入ってたのは知ってる。店が潰れるってなりゃテメェのこった。親に泣きついてでもどうにかしようとしただろう。
けどな、俺ァそんな事望んでねぇんだ。誰かに請い縋らなきゃやってけねー店なら、すぱっと辞めちまった方がいい。」
「・・・・・。」
それはゼフらしい、思い切った決断だ。何をするにも豪快で自分の思うままに生きる彼の背中は、いつだって大きくてそして勇敢な者としてサンジの目に映ったものだ。
しかし、今の彼はとても小さい。店を失い、目的を失い、生きがいを無くしてしまった彼には、もはや何も残されていないのだろう。
「なぁ、ジジィ…あの時、オレに言ったよな?
オレには見失っちまったものがある、それを見つけるまでは店に来んな、って。それはオレに店が潰れると知らないよう咄嗟についた、嘘か…?」
「バカ言えクソチビナス。この俺がテメェ如きを騙すために嘘なんてつくかよ。
……テメェが“ソレ”に気付いて戻ってくる日までに、店を持ち直す時間稼ぎをしたに過ぎねぇ。…結果は、この様だがな?」
声のトーンを幾分か落としたゼフのその言葉は、サンジにしっかりと届いていた。そしてサンジは、聞かされた真実に驚愕する。
当時サンジが店を追い出された理由はゼフに、そしてコック達に嫌われてしまったからというわけじゃなかったのだ。
コックに憧れ、教えを一生懸命請う幼いサンジを、ゼフもコック達も戸惑いながらも相手にしていた。
【料理は教えるものじゃない、見て盗むものだ】と説くゼフ流の料理道は幼いサンジにはなかなか難しく、それでも健気に学ぼうとする姿勢がコック達の胸を打ち、本人が気付いていなかったのだがサンジはコック達のお気にいりになっていたのだ。
だからこそ、徐々にサンジがゼフやコック達の思いから外れていくのを、何とか正してやれないものかと彼等は随分と悩んでくれていたのだそうだ。
ケンカ別れという形は彼等も望んではいなかった。しかし、店が潰れる寸前であることを…サンジにだけは知られたくはなかったのだと。
「…いっとくが、俺は本気で疎ましかったがな?
あの野郎共のことまで誤解させちまったままじゃ、寝覚めが悪ィからな…。今更かもしんねーが、」
失ったものに気付かせようとすると同時に、バラティエという店が消えてしまうかもしれないその瞬間を、見せないが為に。
それは、コック達の“優しさ”だったのだ。…クソジジィも、口ではああだが、おそらくは同じ気持ちでいてくれたのだろう…。
(あのクソコック共、大根役者な癖に子供を騙すための演技だけは一丁前にしやがって…!)
かっと熱くなった目頭を片手で強く押さえ、そのまま表情を隠すように伏せてしまったサンジに、ゼフは何かを感じ取ったのだろう。
「・・そうか、チビナス。テメェ、何か気付いたんだな?」
「・・・・。残念だけどよ。まだなんとなく程度にしか分かってねぇよ。糸口を掴みかけてるだけだ。」
「ほぉ。」
「それすら、向こうの方からスルスルと逃げていっちまう。もう、目と鼻の先だってのによ…」
自分のしてきた事をこんなにも深く後悔する日が来るなんて、思いもしなかった。
一つ後悔すれば、また一つ、また一つと後悔の念は増えていった。あれがダメだったのなら、これもダメだったのかもしれないと。考えれば考えるほど、自分が相当なクズ人間に見えて仕方がなかった。
―― 食い物を粗末にはしない。それはあくまでも前提だ。
でもそれだけじゃオレが変わった、元に戻ったなんて安直な事は言えやしない。
―― ルフィに、自身の作った料理を食ってもらう。
そこからが、オレの理想とする料理人への、本当のスタートになるだろうから。
決意をもって顔をあげたサンジの表情にゼフは確信をもった。
そしてゼフは、パンと一度膝を大きく叩く。空気が震えて同時に舞い上がったホコリをサンジが訝しげに眺めていると
「聞かせろ、チビナス。」
「あ?」
「俺が残してやれるモンはもうココには何もねぇ。答えを教えてやっちゃ、今までのテメェの苦悩が台無しになっちまう。
伊達にテメェより長く生きちゃいねぇんだ。せめてその糸口とやらを掴ませてやるぐれぇの助言はしてやれるだろう。」
「・・・、なんだよ、急に。」
「俺ァ鬼じゃねーからな、慈悲は持ち合わせてんだよ。それに助言してやったところで上手くいく保証もねぇ。
・・・それでもあの野郎共は、テメェの成長した姿とやらを見たがってたんだ。・・・俺も、それなりにな?」
残り僅かな余生の楽しみだ、とゼフはその日初めて笑ってみせたのだ。サンジは、何を縁起でもないことを…と即座に返したのだが。
おもわぬゼフからの温かい気遣いと、コック達の自分に賭ける想いを知り、どんどん胸が一杯になっていく。
じんわりと涙の膜が広がっていき、零れ落ちてしまないよう一度天井を見上げ、スンと鼻を啜った。
尊敬し、憧れて、ずっと追い続けた男の前で情けない表情はみせられない。
両頬を軽く叩き渇をいれてから表情を引き締め、姿勢を正しつつゼフと真っ直ぐ向き合ったサンジは、深く腰を曲げたのだった。
「よろしく、お願いします。・・・オーナーゼフ」
「・・フン、そういう目上を敬う挨拶が出来るようになったか。」
久しぶりに逢ってようやく穏やかな表情を見せたゼフは、一度瞼を閉じてから真剣な顔つきに変わった。
それは、サンジが今までずっと憧れてきた料理人の顔そのものだった……。